阪神は22日、前ロッテ・チェン・ウェイン投手(35)の獲得を発表した。元中日で大リーグでも活躍したチェンは今年9月、ロッテに電撃入団。白星こそなかったが4試合に先発して好投すると、ソフトバンクとのクライマックスシリーズ(CS)第2戦にも先発していた。動向を注視していた阪神はロッテの保留選手名簿を外れ、自由契約選手として公示されると速攻でアタック。ロッテを含む複数球団との争奪戦を制した。

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大男が満面の笑みを浮かべていた。04年2月、名古屋市内で行われた入団会見。中日のアジア担当スカウトとなっていた大豊泰昭さんは、故郷の台湾から連れてきた細身の青年を誇らしげに紹介した。登録名は「陳偉殷」。のちに日本球界を沸かせ、メジャーでも活躍する投手になるとは、集まった報道陣はもちろん、球団関係者も想像すらしていなかった。

「すごいボールを投げるんだから。間違いなくエースになるよ」。球団を熱心に口説き落としたのは大豊さんだった。毛筆で書かれたスカウティングリポートを球団社長宛てに何枚も提出。台湾棒球協会にも掛け合った。国際大会で来日したチェンに会うために、球団関係者を引き連れて札幌まで訪れた。入団後は通訳兼相談役として生活のすべてをサポート。まるで親子のようだった。

1年目は登板なし。左肘のけがにも泣かされ育成選手にもなった。頭角を現したのは入団してから5年目。08年4月2日巨人戦(東京ドーム)。負傷降板した山本昌のあとを受けて登板。5回2/3無失点で来日初勝利を挙げた左腕は、すっかりうまくなった日本語で「大豊さんのおかげで勝てました」とはにかんだ。

大豊さんは王貞治にあこがれ、20歳だった84年に台湾から日本に渡った。88年ドラフト2位で中日に入団。93年の1本足打法挑戦をきっかけに飛躍し、翌94年には38本塁打、107打点で2冠王に輝いた。だが、ナゴヤドームが開場した97年に12本と本塁打が激減。そのオフに、2対2の交換トレードで阪神移籍が決まる。阪神関川、久慈。中日大豊、矢野。大豊さんとともにタテジマを着ることになったのが、矢野監督だった。

15年1月。大豊さんは急性骨髄性白血病のため51歳という若さでこの世を去った。屈強な肉体とパワフルなスイングで魅了した男も、病魔には勝てなかった。大豊さんは生前、メジャー挑戦を口にしたチェンに反対したこともあったが、それも愛情の裏返し。海を渡った息子の活躍をいつも気にかけていた。あの入団会見から16年。チェンは矢野監督が指揮を執るタイガースの一員になる。天国の大豊さんが導いた不思議な縁かもしれない。【元中日担当、現阪神担当=桝井聡】