
あれから25年。歴史はここからはじまった。
1995年5月2日。カリフォルニア州キャンドルスティック・パーク。背番号16をつけたロサンゼルス・ドジャースの野茂英雄は、記念すべきメジャー第1球をサンフランシスコ・ジャイアンツのリードオフ、ダレン・ルイスに投げ込もうとしていた。
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上空には澄み切った青い空が広がっていた。サンフランシスコ湾からは特有の強い海風が舞い込む昼下がり。初の出来事に、大挙して訪れた日本報道陣は300人近くにも及び、ジャイアンツ広報部は当時、球場を併用していたNFL・サンフランシスコ・フォーティナイナーズの記者席を日本メディア専用プレスボックスとして解放したほどだった。
喧騒。数々の日本人メジャーリーガーのデビューを取材してきたが、この時ほど“ざわついた現場”はお目にかかったことがない。イチロー、松井秀喜、松坂大輔らのデビューも報道陣の数で言えば引けを取らなかったかもしれないが、流れていた空気がまったく違う。野茂の挑戦をまだ素直に受け入れられていない“反感”を持った記者も多くいた。
日本球界が浴びせた批判の数々。
わずか5カ月前、彼は「裏切り者」「ルール違反」「金の亡者」など、数々のレッテルを日本で貼られた。
本人にしてみれば、日本のプロ野球統一契約書で選手に認められていたたったひとつの権利、任意引退の立場を手にし、夢を追い求めようとしただけだった。なのに、当時の日本球界は一部メディアを巻き込み、「裏切り者」などと批判し、彼を追い込もうとした。
帰る道のない片道切符。それでも野茂は外圧に屈せず、己の意志を貫き通し、夢舞台に向け、ひとり歩き出した。日本では、メジャーでプレーすることなどまだ誰も想像もできなかった時代に前人未到の4年連続最多勝、奪三振王を手にした日本球界屈指の投手の心は折れなかった。
警察に護衛されて向かったデビュー戦。
デビュー前日もちょっとした騒動が起こった。
ドジャースのクラブハウス前は報道陣でごった返した。ご承知の通り、メジャーリーグは練習前のロッカールームをメディアの取材用に公開しているが、当時の野茂は球団が設定した席以外での取材には対応しなかった。これは大谷翔平の今も同様だが、それでも集まったメディアは何か情報を探ろうとクラブハウス周辺に集まっていた。
その中、野茂が練習のためフィールドに出ると、あっという間に報道陣に取り囲まれた。まさに民族大移動。立往生しながら苦笑する当時26歳の若き投手。すると、翌日のデビュー戦ではこんな光景に出くわした。
クラブハウスからダグアウトに向かう野茂の両脇をサンフランシスコ市警のポリスが固めている。警察官に護衛されながらデビュー戦に臨んだ選手がいたであろうか。晴れやかな記念すべき日でありながら、一方で何か重たい空気も確実に流れていた。
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2020-05-02 11:01:14Z
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