<霧馬駆ける 大関昇進>㊤
新大関霧馬山が誕生する。相撲未経験ながらモンゴルから来日し角界入りしてから9年弱。2回に分けて、
◆来日した時、師匠は「入れるつもりはなかった」
2014年秋、東京・両国国技館から程近い陸奥部屋で、モンゴルから来た5人の青年が数日間、稽古をした。本人たちは「日本の相撲部屋に入れるかもしれない」と言われて来日しており、表向きはスカウト活動の一環とされていた。ただ、「見るだけで入れるつもりはなかった」と振り返るように、師匠の陸奥親方(元大関霧島)は後ろ向きだった。当時、すでに多くのモンゴル出身力士が角界で活躍していたが、言葉が通じないため、一から指導するのは相当な覚悟が必要だと感じていたからだった。
ところが、その稽古から約1カ月後、仲介をした後援者から親方に電話があった。「どの子が良かったですか? (返事を)待っているんですけど」。催促され外堀が埋まったのが分かった。その時、頭に浮かんだのが、相撲を取らせてみて、最もバランス感覚にすぐれ、受け答えも素直だった一人の顔。相撲の経験はなく体重も70キロ前後と細身だったが、角界で活躍する素質があるかどうか、見極める目には自信があった。
◆四股名の由来は師匠+遊牧民+伝説の横綱
その青年はモンゴルの首都ウランバートルから約700キロほど離れたドルノド県出身。名をビャンブチュルン・ハグワスレンと言った。何より、大相撲で活躍して「親孝行をしたい」という心意気を気に入っていた。その思いがあれば、異国でのつらい稽古も乗り越えられると考え、弟子にすると腹を決めた。
自身の現役時代のしこ名から一文字。遊牧民の家庭に育ったことから「馬」を。さらに、不滅の69連勝を記録し、陸奥部屋が所属する時津風一門を開いた大横綱双葉山からも一文字もらい、「霧馬山」と名付けた。
入門後の稽古を見て、改めて確信した。「黙っていても幕内、三役にいく」。稽古では基礎をたたき込んだ。2015年夏場所で初土俵を踏み、幕下で16場所とやや苦しみながら、新入幕で迎えた20年初場所で11勝を挙げ、初の三賞となる敢闘賞を受けた。
◆霧島と鶴竜直伝の技
井筒親方(元関脇逆鉾)の死去にともなう部屋の閉鎖で、技巧派で鳴らした横綱鶴竜(現親方)が、陸奥部屋に移ってくる運にも恵まれた。前みつをつかみ相手の胸に頭をつけ食らい付く取り口や、巻き替え、まわしを切る技を直々に教えてもらい、相撲の幅を広げた。「師匠と横綱(鶴竜親方)のおかげ」。霧島の半分ほどの所要48場所でつかんだ大関昇進。師匠の予感は間違っていなかった。
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2023-05-30 02:30:00Z
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