神奈川大の大後栄治監督のリクルーティング・レーダーに、 「鈴木健吾」 という選手の名前が引っかかったのは、彼が高校1年生の時だった。 【写真】箱根を走る“日本新”鈴木の大学2年、胴上げではしゃぐ大学4年&MGC7位の走り、など貴重な写真を見る(全7枚) 「小刻みなリズムで、走りがとてもいい選手が、愛媛の宇和島東高校にいると情報が上がってきました。ひと目見て、天性のリズムを持っていると直感しましたね」 まだ全国的には無名の選手だったが、大後監督は鈴木が高校2年のうちに積極的な勧誘をした。それだけ才能に惚れ込んでいたのだ。 「現在の厚底シューズの時代とは比較になりませんが、健吾が高校生だった2010年代前半は、2年生の時に5000mで14分45秒を出していれば、神奈川大としては奨学金給付対象として考慮します。他の大学の監督さんが気づかないうちにオファーはしました」 鈴木も早くから自分に注目してくれる神奈川大に好意を持ち、高校2年の段階で進学先として神奈川大一本に絞るようになっていた。
「あの宇和島東の鈴木って、どこかに決まってるのかな?」
その数カ月後。 大分県で行われたインターハイで鈴木は5000mで10位に入る(ちなみにこの大会のスターは100m、200mの個人二冠を達成した洛南高校の桐生祥秀)。鈴木は、上位3人を留学生が占める中で、世代ではトップの実力を示したことになる。 すると、スタンドでレースを見ていた関東の大学の監督たちが、色めき立った。大後監督が微笑みながら、当時のことを思い出す。 「あの宇和島東の鈴木って、どこかに決まってるのかな? という声が聞こえてきたんです。健吾が“全国デビュー”したのは、このときが初めてでしたから、どこの大学のレーダーにも引っかかっていなかった。ウチとしてはひっくり返されちゃたまらないので、『ウチに決まっています! 』と宣言しました」
「消化器系にトラブルが起きていました」
鈴木は2014年に神奈川大学に入学するが、正直なところ、2年生まではこれといった成績を残していなかった。箱根駅伝では1年生の時が6区山下りで区間19位、2年では2区を任されたが区間14位に終わっている。私も1年生の時に初めてインタビューをしたが、「はい」、「そうですね」と、言葉少なに答える鈴木の様子が記憶に残っている。 この時期の鈴木はどんな状態だったのか、大後監督が振り返る。 「2年生までは、追い込んだ練習をした後に、消化器系にトラブルが起きていました。おそらく、内臓でダメージを受けた箇所の修復が間に合わなかったんでしょう。そうなると、継続して質の高い練習が積めなかったんです」 それが3年生になって変化が表れた。疲労が蓄積することがなくなり、練習の質、量が飛躍的に上がっていった。 「20歳を超えて、内臓が収まるところに収まった感じでしょうか。いくらでも練習が出来るので、やめさせるのが大変でした。量が出来てくれば、次に追求するのは走りの“効率性”です」
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2021-03-01 08:06:24Z
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