Selasa, 11 Juni 2019

栗原恵、バレー人生に笑顔のピリオド。ケガ、五輪落選も、すべて幸せ。(Number Web) - Yahoo!ニュース

6/11(火) 17:31配信

Number Web

 少し緊張気味の笑顔を、無数のフラッシュが照らす。

 「バレー人生の最後は『バレーボールをやってきてよかった』と笑顔でコートを去ることを目標にしていたので、思い描いていた通り。何より幸せな選手生活でした」

【秘蔵写真】栗原恵、10代のあどけない頃から今の美しい姿まで。

 走り続けた17年。振り返れば、決していい時ばかりでなかった。

 だが、檀上で見せる笑顔は正直だ。

 “メグカナ”フィーバーが巻き起こった頃よりもずっと、栗原恵は美しく輝いていた。

パワフルカナが語ったメグの強さ。

 “パワフルカナ”と、“プリンセスメグ”。その愛称に違わず、世間でもどちらかといえば、大山加奈のほうが強くて明るく、栗原のほうが可憐でおとなしそう。そんなイメージが先行していたはずだ。

 だが、実際は真逆。そう言うのは他ならぬ大山だ。

 「メグのほうが強いんです。芯が一本、いつもしっかりありました」

 共に、高校在学時に日本代表へ招集された。187センチの栗原と大山。シドニー五輪出場を逃がし、復活を目指す日本女子バレーボール界にとって待望の大型エースの誕生に、寄せられた期待は大きかった。だが、もともとネガティブで引っ込み思案な大山は、代表合宿初日も1人で行くのが怖くてたまらず、見かねた下北沢成徳高の小川良樹監督が付き添ったほど。送り届けた小川監督が帰ると、一気に不安と寂しさが込み上げた。

 「あぁ、私1人なんだ、と思ったら怖くて。部屋で泣いていたらメグに『何泣いてんの? 』って(笑)。中学を卒業して親元を離れたメグは私よりずっと覚悟があったし、度胸も備わっていた。メグは強いなぁ、って泣きながらずっと思っていました」

 そんな強い栗原でも、日本代表のエースとして日の丸を背負うプレッシャーは想像以上だった。

日の丸を背負う重圧。

 2大会ぶりの'04年アテネ、'08年の北京と2大会連続でエースとして出場するも、準々決勝の壁を突破することは叶わず。五輪のみならず、国際大会でも負ければ矢面に立たされて批判を浴び、試合後のコメントも慎重になりすぎるせいか、自然に言葉数も減る。ミックスゾーンで発する声も小さく、いつもどこか、うつむきがちだった。

 なぜあんなに下ばかり見ていたのか。

 時が過ぎた今、とにかく余裕がなかった、と栗原は振り返る。

 「日の丸がついたユニフォームで日本を代表してコートに立つということは、幼い頃からテレビで見ていて“すごいな”と感じていた選手たちの中に、自分が入ってプレーするということ。自分は今すごいことをしているんだ、と思っていました。実際に1試合勝つと新聞で取り上げていただいて、おめでとうと言っていただける。でも反響の大きさを素直に喜ぶというよりは、逆にプレッシャーに感じてしまうタイプだったのかな、と思います」

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2019-06-11 08:31:00Z
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